2020年の正月には世界がこれほど変容しようとは思っていなかったが、新型コロナウイルスは現代社会を大きく変えようとしている。新型コロナウイルスに蹂躙された社会で、パンデミック前をコロナ前(BC, before corona)、パンデミックが終息後をコロナ後(AC, after corona)と呼んで、我々はどのようにコロナ後の生活、社会に対応していくべきか、多くの知識人がかまびすしく評論している。すくなくとも今までのノーマルな生活は変貌を遂げることだけは確かなようだ。これをニューノーマル(新常態)と呼び、私たちの適応力が必要だとメディアが訴えている。
このような時に数年前に読んだ「ピダハンー言語本能を超える文化と世界観」を思い出した。新型コロナウイルスにいつ感染するか不安でしょうがない、毎日が心配の連続の生活となっている。コロナ後に不安のない満たされた生活を送れるようになるのだろうか。現代社会とは対極に位置すると考えられる「ピダハン」の世界を紹介し、ニューノーマルを考えるヒントにしたい。
「ピダハン」の世界には心配にあたる言葉がない。つまりピダハンの人々は心配しないのだ。当然、病気や動物からの攻撃など危険がないわけでないが、考えてもしょうがないことは考えないから、心配がないらしい。
ピダハンとはアマゾン奥地、マイシ川の沿岸に住んでいる300~400人の種族の名前である。ピダハンの人々が使うピダハン語は現代の主要な言語の観点からみると非常に“原始的”と捉えられるかもしれない。すなわち、数、色、左右、複雑な家族関係を指す言葉が存在せず、人間の言語に無限の創造性を与えている関係節(従属節)を多用した“言葉の道具”も使わない。もちろん文字も存在しない。ピダハン語には受動態という構造はなく、すべて主人公が強く表現される能動態のみを使う。受動態が頻繁に使われる現代の言語多い、社会においては、主人公への関心が薄れていく傾向と対照的である。「方向」を示す言葉も北や南でなく、彼らの生活の糧の源であるマイシ川の上流側か下流側で示し、また右や左に対応する言葉もない。「数」においても絶対的な数の概念はなく、相対的な量として多いや少ないと表現される。ピダハンの文化は数、色、家族関係などの、我々の常識からすれば欠くことのできない言語を必要としないばかりか、その全てが従来の言語学や人類学の定説に反することばかりである。
ピダハン語では頻繁に主語が省略される。これは会話の中で主語が容易に同定できるという密接なコミュニケーション社会でのみ可能となる。この密接さを示す特徴としてピダハンには挨拶する習慣がなく、したがってピダハン語には「挨拶」に相当する言葉ない。社会において挨拶は人間関係の潤滑油となっており、現代社会において挨拶のない生活がいかに殺伐たるものになるかは想像に難くない。私の知っている言語の中では、英語は文法的に主語の省略を許さないが、スペイン語の場合には一人称、二人称、三人称、それぞれの複数形、男女別で動詞が変化し、主語が省略されてもその動詞活用により主語が特定できるため、主語が略されることが多い。これらの言語ではピダハン語と異なり、関係節や受動態が頻繁に使用され、さらに潤滑油としての挨拶語は欠くことが出来ない。しかし、挨拶がなくてもピダハンの人々は家族のように仲が良く、のべつ幕なしにしゃべり笑う。
このようにピダハンの言語の特徴が他の主要な言語と比較して非常にシンプルであり、他の言語がもっている特色を欠いているが、このことはそのまま言語の優劣を示すものではない。ピダハン社会が言語的にも文化的にも孤立しているのは、彼らが自分たち以外の文化に対して強い優越感をもっており、自分たちの生き方が最上だと信じており、それ以外の価値観と同化することには関心がないためである。すなわち、ピダハンは自分たちの周りの環境の中で、うまく生き抜くための知恵をもち、狩猟採集民として満たされた生活を送っており、外部の世界をうらやんだりしない。自分たちの体験に基づいたものだけを信じ、架空の物語などには関心が無く、まして神などは必要としない。
ピダハンの世界にキリスト教を広めるために、ピダハンの中で生活したアメリカ人伝道師、ダニエル・L・エヴェレットの著書、「ピダハン」(みすず書房2012年)は、我々現代人に対して、満たされた生活とは何か、常識、定説とは何か、という問題を突きつける。同時に、このような社会にも“キリスト教の世界を持ち込もう”とする伝道師達の壮絶な、かつ“傲慢”な姿に対して、非キリスト教社会に住む者として複雑な思いにかられた。著者の言語学や人類学の理論、定説がことごとく覆され、さらに自身の価値観もゆらぎ、信仰を失い、無神論者に導かれたことを述べた最終章の読後は、価値観や信仰について再考を迫られ、正に刺激的であった。